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どうせブタになるだけだからそれなら僕は神になる

三年前の正月は大雪だった。忘れもしない。

三十日の夕方あたりから降り始めた雪は二晩に渡って降り続き、元旦にはかなりの積雪になった。
ここはいわゆる“豪雪地域”ではないから一冬に何メートルもの雪に覆われるようなことはない。それゆえ一度に四、五十センチも積もられると人々はてんやわんや、びっくらこくのである。
当の僕もこの地にあれほどの雪が一度に積もったのを見たのは実に久しぶりだった。子供のころにはたしかあったような気がする。僕の記憶にはすっぽりと抜け落ちている二十五年の空白期間があるのだ。

友人から「『門打ち』に参加してみないか」と誘われた。まもなく年が暮れようとするときだった。
お正月の風物である獅子舞、ここでは獅子舞とは言わず権現舞というが、それを全氏子の家を訪ねて門の前、家の門で舞うから「門打ち」。
僕にとっては馴染みのない言葉だった。聞けば二年おきのお正月にあって、二十数年前に復活したものだということだった。
全氏子、つまり三百ほどあるこの地域のほぼ全世帯を三日間かけて回る。
「興味があったら頼みたいそうだ。そのかわり嵐が来てもなにがきてもやるからな」
友人が言ったその言葉どおり、悪条件での門打ちとなった。

当日の朝、小さなシンバルのような手鉦を渡されて鳴らしかたを教わった。一定のリズムでただ叩くだけだと言われてそのとおりにした。手と足と耳が冷たくてどうしようもなかった。「ちゃんと合わせろ」と下手な鉦に何度注文を付けられたことか。
こんなところにも家があったのか、ここが同級生の家か、と新雪をかき分けて歩く中でさまざまな発見があった。裕福そうな家もあればそうではなさそうな家ももちろんある。だがすべての家で等しく権現様が舞い、別当が祝詞(のりと)を上げる。お酒やお煮しめが振る舞われ、どの家でも特別な客として迎えてくれた。
人ごみを分け入って初詣に行くことにしばらく慣れきっていた僕にとって、それはある意味ショッキングだった。古式ゆかしい風習がこうして残っていることに感激し、陳腐な表現だけれど「これすっげえ!」と目からコンタクトレンズが落ちた。

それ以来、僕は週二回神社に通いつめ、鉦を叩き続けている。
飽きやすい僕がよくここまで続いているものだと思うがそれはおそらく同士に酒飲みが多いことも起因する。ことあるごとにひっくり返るまで酔っ払っては下世話な話で盛り上がるが、衣裳を纏い、烏帽子や豆絞りを付けると狐に憑かれたように突然表情が変わって神様に見えてくるからおもしろい(と言っては不謹慎か……)。まさに生身の人間に神様が憑依したように見える。

今度のお正月は三年ぶりの門打ちの年になる。
僕にとっては二度目の「神になる年」。なんだかんだでとても楽しみなのである。どうせお正月なんか一人で無為に過ごすことになるし、ゴロゴロしてるとブタになるだけだ。

ただ今回は大雪や吹雪にするようないたずらは神様も避けて欲しい。

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功績

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僕たちが俗に「天狗(てんぐ)」と呼んでいるのは「猿田彦命(さるたひこのみこと)」という神様のことだ。

猿田彦は上背が二メートルほどもあり、赤ら顔で鼻がとてつもなく大きいのだという。
彼の役目は道案内。天から降りてくる不案内な神を、目的の地まで迷わぬように案内することが仕事の中のひとつだった。わかりやすく説明すればだ。
そのいわれからお祭りでは行列の先頭に立ち、後ろに続く者の案内をするようになった。
意外と知られていないことではないだろうか。

お祭りというのはいいものだ。
昨日はこの時期にしてはかなり暑くなったが、その暑さを吹き飛ばすがごとく、人々のエネルギーが爆発した。車の往来が遮断された路上で、虎や馬などの郷土芸能が、小気味よい囃子にのせてうねり、乱舞した。もちろん我らが神楽も。大きな山車がその後に続く。

山車祭りである。大きなお祭りではないが山車はかなり大きい。町の作りが小さいために電線や標識にも引っかかる。町を通過するには四箇所ある狭い交差点で直角に舵をとる必要もある。一筋縄にはいかない。
全部で六台。そこまで大きくしなくてもいいのではないかとも思うのだが、それがこの町のお祭り。各団体の意地と矜持のぶつかりあいみたいなものなのだ。

この町の君成田(みきなりた)という集落に永井久右衛門という人がいた。
西暦千八百年代はじめのことだからいまから約二百年ほど前のことになる。
彼は幼いころから非常に手先が器用な人だった。殊に彫物の才能に長け、その能力をいかんなく発揮した。八歳のときに立派な地神の像を彫って周囲の大人たちを驚かせたという逸話もある。
評判が高くなり、やがて藩の目に留まって御用彫刻師となる。
当時この町は八戸藩領。代官所が置かれて八戸藩によって治められていた。そんな時代だ。
だが彼は宮仕えがいやになり、藩の許可を得た上で故郷に帰った。その後は自由気ままに創作に打ち込んだが、一八三六年、若干三十四歳の若さでこの世を去っている。

永井は「猿田彦命」の木像を遺した。
それは大きくて立派な木像で、七尺を超えたという“実物の”猿田彦の姿を“忠実に”再現した。
長きに渡って厳重に保管され、いまでは年一回、秋祭りの行列の先導役として我々の前に姿を現す。

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不思議な歌

ナニャトヤラ ナニャトナサレノ ナニャトヤラ――

ただこれだけの、五・七・五調の詞だ。
意味はわからない。地域の長老も、どんな偉い学者さんでも、確信を持ってこの詞の意味を説明できる人は誰ひとりとしていない。いつの時代から、誰からどのようにして伝わったのかもわからない。
人々は意味もわからずにこの歌にのせて踊りを踊っている。まったくもって不可思議な歌である。

ヘブライ語の歌である、との説を唱えている人もいる。
日本最古の民謡である、と言っている人もいる。
「成せばなる 成さねば……」と、かの上杉鷹山公は言ったそうだがそういう意味だという人もいる。五十歩譲って仮にそうだとしよう。だがそれは上杉の方がパクったとしか思えない。「ナニャトヤラ」はもっと古い時代から存在したと“思われる”からだ。
何もかもが推測の域を出ないが、それが「ナニャトヤラ」なのだ。四、五百年前のことならどこかになんらかの形で記録が残っていてもおかしくはないがそれがないとくる。
僕が住んでいるまさにこの場所を含め、北東北一帯は縄文時代からすでに人が住んでいたということがあきらかになっている。縄文人がどんな言葉を話していたかは知る術もないが、もしかしたらそんな時代からこの歌が歌われていた、という説を否定できる人もいないはずだ。

とまぁ、あんまり深く考えると頭が禿げてしまうし、別に郷土史研究家になるつもりはないからここらへんで終りにして……。
自暴自棄(ヤケクソ)の歌だという人がいる。「どうにでもなれ! どうなってもいいや、もう!」みたいな感じだが僕はその説を支持している。
それこそ根拠のない話だがリズムとか語呂からなんとなくそう感じるだけのことである。貧しく苦しい生活を強いられてきたこの地域の人々の哀歌。こんな歌にあわせて踊りを踊って憂さを晴らす−−。
第六感のようなものだがここに生まれ、ここに生きてきた人間ならばそう思っている人は少なくないはずだ。ただなんとなくね。

この歌、「ナニャトヤラ……」だけで終わるなら不思議だと感じるだけで終わってしまうがそのあとがじつにおもしろい。
おそらく自然発生的に生まれた詞や、自棄になった民衆が日常から滲み出るエピソードをおもしろおかしく、たまにエッチな詞を作っては楽しんだと思われる詞もいくつかある。
――ナニャトヤラ ナニャトナサレノ ナニャトヤラ
――今夜ばかり 盆の十六日 今夜ばかり
――ナニャトヤラ ナニャトナサレノ ナニャトヤラ
――踊ってけろ ここは立ち見の場所じゃない
――ナニャトヤラ ナニャトナサレノ ナニャトヤラ
――南瓜もぐ 娘貸さねば 南瓜もぐ 
と、こんな具合に繰り返されるのだが「南瓜もぐ……」は娘を俺に貸してくれなければ悪戯するぞ、と歌っているのである。
小さいころは「いったいどこから誰が南瓜をもぎにくるのだろう」と思ったものだ。きっと河童か何かが畑にやってきて悪さをするのだろうと思っていたものだが僕もいつしか大人になったものだ。

五・七・五の歌にあわせるだけだから太鼓のリズムは実にシンプル。
上手下手は別として三回ほどの練習で体が覚えてしまった。
僕にとってデビュー選となる本番は来週金曜日。祭りは参加するのが楽しい。

――踊ってけろ どこのどなたも 踊ってけろ
――太鼓打ち しめて踊ってけろ 太鼓打ち
――萩刈りに 秋は山々 萩刈りに
――子が踊る 三十過ぎたら 子が踊る
――孫踊る 四十過ぎたら 孫踊る
――渡るまで 夜明けガラスが 渡るまで
――盆が来た どこの村にも 盆が来た
――藤の花 咲いてからまる 藤の花
………… 

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馬耳南風

馬の産地である。正確に言えば「馬の産地であった」が正しいかもしれない。

岩手県北部と青森県南部、藩政時代でいう南部藩は昔からたくさんの良馬を産出したところだ。僕が小さかったころはその辺にも馬がうじゃうじゃいた。というのは嘘だがごく普通に厩のある家があって、よく馬を見かけたものだった。馬が糞をしながら道路を歩いていたのを見た記憶があるからいま思うと嘘のような話である。
小学生のころ、卓球の好敵手である友人が一人公民館で練習をしていたら(かくれ練習というやつだ)、金具のようなものを引きずってものすごい勢いで走って行く馬を見たと言った。「ヒヒーン」といななきながら走って行ったかは定かではないが、その大きさと迫力に圧倒されてとても恐かったのだとの談だった。
どこからか逃げてきた馬だったのだろう。そのあとをどこかのジサマが「こらぁー、待でぇー、どごさ行ぐー」などと言いながら追いかけて行ったかどうかはわからないが、馬に言葉をかけようが、走って追いかけようが捕まえられるわけはないのである。
つい最近(といってももう四十年ぐらいも前の話だが)までそんなのどかな光景が見られたものだ。いま、この地区に馬がいるという話は聞いたことがない。たぶん一頭もいないのだと思う。
ただ、この町が馬の産地であったという名残りは残っていて、ある地区にはまだ馬がいる。年に何回か、馬の競り市も開かれる。僕にとって馬とは生まれてはじめて競馬に行って五千円の馬券を当てたとか、"僕自身"が馬並みだとかいうことぐらいの縁しかないけれど、一般的に馬はだれからも好かれて畏敬の念さえ抱かせる動物であることには違いない。

「第三ランタンタン号」という馬がこの町で生まれた。昭和八年、いまから八十年前のことだ。それはとある農家の小さな厩で生まれた。競りによってある人物に買い取られ、現在の岩手県奥州市江刺区岩谷堂というところで育った。昭和十二年、支那事変が勃発。第三ランタンタン号は戦場に徴発され、「勝山号」となって国のために活躍した。
仕えた三人の連隊長はいずれも戦禍に倒れて命を落とした。そのたびに勝山号も瀕死の重傷を負ったが、加療によりその都度復活。四人目の連隊長となって勝利をおさめ、勝山号は日本に帰還する。戦場に出陣した軍馬は百万ともいわれる中、帰ってきたのは勝山号たった一頭のみだったということだ。

まぁ、そんな話があるわけだ。
産まれた馬をどこかに売り払ったのだから、売り払った時点でもうこの町には関係ない話だと言われてしまえばそれまでだが、馬の産地たらんとするそんなエピソードがこの町にはあって、やっぱりいい馬はこの町から産まれたのだ。
帰還したときはそれはもう英雄扱いだったといい、当時動物が与えられる勲章(当時はそんなものがあったらしい)としては最高位の「甲巧章」というのが与えられたらしい。

「馬子にも衣装」、「馬の耳に念仏」、「馬耳東風」……。
ロバと同じで馬というのはどちらかというとマイナスのイメージがあるけれど、滅多に見られない実物を見ていると、その瞳は優しく穏やかで、なんとも心が和むのである。
お馬の親子は仲よしこよし――。そんな歌もある。

この親子も仲がよくて本当に幸せそうだ。

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Hanabi

町の花火大会があった。
昨日から夏祭り。空気は澄んで暑くもなく寒くもない絶好の花火日和。

時間にして三十分足らずの花火大会だったけれど、すぐ近くで上がるから結構見ごたえがある。

今年の夏は花火に行けそうもない人たちのために。

ささやかな花火だけれど−−。



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