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ヤマガ

 夏の余韻を楽しませる余裕もなきごとく、季節はさっさとうつりかわって早々に秋はやってきた。巷間では早くもマツタケが売られ、クリまでもが出まわっている。クリ拾いができるのは秋祭りの前後と相場が決まっているのだが、聞けば今年は八月のうちにできたとのこと。二週間以上もはやいことになる。「八月にクリ拾いをした記憶はいままでにない」と、ある老婆が僕に言った。春先にこのブログに書いた記憶があるのだけれど、今年は時間軸と季節軸が相当にズレている。十月には雪が降る? そんなバカな……。
 近い将来、八月にクリ拾いを楽しむことはごく普通のことになり、稲刈りは八月の風物詩、お父さんはマツタケ狩りのためにお盆など休んでいる場合ではなくなり、ご先祖様への供物にはサンマが欠かせない、という日がやってくるのかもしれないのである。――そうなったとしても、世渡り下手な僕は年中、火中のクリを拾い続けていると思う――

 僕が小さいころというのはどの家も貧しく、農作業に明け暮れているような家がほとんどだった。親がサラリーマンだという家はほとんどなく、数少ないサラリーマン家庭はとてつもない“上流階級”に思えたものだった。我が家は農家ではなく、両親が関東方面に住み込みで出稼ぎ(僕も小さいころは千葉や埼玉で“飯場生活”を送ったことがある)に行ったり、学校に入ってからは細々と商売を続けたりしていた。
 そんな状態を子どもながらに見ているから贅沢をしたいなどとは思わなかったし、そもそも贅沢ってなんなのかがよくわからなかった。でもさすがに甘いものは欲しかった。

 秋の山はおやつの宝庫だった。クリにアケビ、ハシバミやヤマブドウなど、夢中になって採った。柄の長い山菜用の鎌を持ち、腰には籠を巻いて友人と山に入る。
 僕が好んで採ったのはアケビだった。熟してパックリと口を開けた実の中に入っている透きとおった果肉はどんなおやつよりおいしく感じた。果肉には黒く細かい種がたくさん混じっていて、吐き出すのも面倒だからそのまま飲み込むと、翌日、「原型のまま」排泄された。果肉は鳥もよく食べる。アケビは鳥の力も借りて子孫を繁栄させているのだ。
 マムシを捕まえて売ったことがある。千八百円になった。親が商売をしていたから市場に出して競りにかけてもらったら狂喜乱舞するぐらいの値がついた。危ないから二度とするな、と母には苦笑され、父はなにも言わなかった。
 山中で二メートルほどもある太く長いヘビの抜け殻をみつけたこともあるし(山にはまだまだ僕らが知らない生き物や魔物が隠れ住んでいる)、山をさまよっていたら広大にひろがる美しい草原に出て、翌日またそこをめざしたけれども二度とそこにはたどり着けなかったという狐に化かされたような不思議な体験をしたこともある。

 これもよく食べた。「ヤマガ」である。おそらく「ヤマグワ(山桑)」が訛化した呼び方ではないかと思うのだが真偽のほどはわからない。正式名称は「ヤマボウシ」。
 あらためてみると、さながらアマゾン山中の不気味なフルーツのようでもあり、はたまたスパイダーマンの頭部のようにも見える。サクランボほどの大きさで、これにもかたくて小さな種がたくさん入っている。「薄いバナナみたいな味」と言ったら一笑に付された。

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「ばい」の語源

 おまえには“びゃーっこかき”をたのむ、と言われた。
「かき」は「欠き」で、“折る”とか“取り除く”を意味することは容易に予測できたが、「びゃーっこ」とは、はて・・・・・・。

 この町の訛りの大きな特徴なのだが、「ai」の発音が「○ゃー」に変化することがよくある。一例をあげると、「な(無)い」は「にゃー」になり、「さ(咲)いた」は「さゃーだ」(微妙な発音が文字では伝えにくいのだけれど)、「かいな(腕)」が「きゃーな」、町の名前である「○るまい」が「○るみゃー」になることさえある、といった具合。「ai」ではないものの東北弁を象徴するような言い方である「○○だべや」は「○○だびゃー」となり、「このまえ(前)」は「このみゃー」になって、「びゃー」とか「みゃー」とかいい加減にしろい!みたいな感じになって聞き慣れない人にとってはまるで猫の会話みたいに思うかもしれないのである。
「びゃーっこ」は「ばいっこ」が語源なのだろうと思った。「っこ」は親しみや慈しむ感情を込めるとき、または程度の小さいことや愛嬌のあるものを呼称するときに使う。「お茶っこ」「酒っこ」「ビールっこ」「どじょっこ、ふなっこ」(「どじょっこ」は「どんじょっこ」と言うことが多いけれど)がその例。そこまでの理解は正しいと思うのだけれど、じゃあ「ばいっこ」の「ばい」ってなに?

 先週土曜日、僕はタバコ畑の中にいた。前夜から降りはじめた雨は結局その日も終日やむことはなかった。5年ほどもまえに買い求めた雨合羽は時間の経過とともに「浸透性」が増し、みえざる穴がどこかにあいている長靴とあいまって全身がずぶ濡れになって冷えきった。
 このまえ、とある高原にある広大なトウモロコシ畑に行った。夏真っ盛りの7月下旬のことだった。そのときも雨が降っていた。かなり強い雨だった。遠くからせまってくる雨の波が白っぽいカーテンのようになってみえる。白昼にみるオーロラか虫の大群のようだと思った。雨の波をみたのは遠い昔に体験したことがあるような気がするけれど、それがいつだったかはとうに忘れている。もしかしたらはじめてみる光景なのかも。
 普段は変化のない単調な日々を過ごし、つまらない書類作成や、僕がもっとも不得意とするところの折衝ごとに奔走することもある。山奥の小さな町で一人、怠惰な生活を送り続けることにどんな意味があるのか、僕はいまだによくわからない。そんな面倒なことを考えてしまうこともあるのだけれど、いくつになっても、どこにいても、新たな発見や未知の世界を垣間見る機会は用意されている。それが不意におとずれたトウモロコシ畑での雨の波や、畑の中で巨大な葉っぱが雨に打たれる光景であったりする。知ったつもりでいても、知らない世界やことがらはまだまだあるものだ。「ばい」の語源もそのひとつ。

「びゃーっこ」とは脇芽のことであり、僕へのミッションは大きな葉っぱの付け根から生えている不要な脇芽を探しあて、それを一つひとつ取り除くというものだった。高齢化により労働力の確保もままならないらしく、僕みたいな「若衆」にも声がかかった。死活問題らしい。小さく細いものは手でつまんでポキリと、太くて頑丈なものはハサミを使ってザックリと。日がな一日、僕は脇目も振らずに脇芽を欠いたのだった。
 タバコの葉っぱはまもなく収穫される。皮肉にも、僕が紫煙をくゆらす嗜みを断ってから一年が経つ。

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スクープに違いない

 ただなんとなく、つらつらとまた駄文を書きつらねようと思う。つらつら、つらつら、紀貫之である。

 おそらくこれはスクープに違いない。
 僕は今日、ある動物の生きた姿を写真に収めることに成功したのである。
 なにを見たのか、なにを写真に収めたのか。
 それは腹周りが大人の腕ぐらいあって数メートルも飛び跳ねて戦いを挑んでくると恐れられる幻の蛇、ツチノコの姿でもなく、じつは本州にも棲んでいるのではないかと噂されるヒグマの姿でもなく、「でたぁ」と役場からの「緊急放送」がしょっちゅうあるものの、僕はいったい鉄砲をかついで外出すればいいのか、はたまたハチミツを持参してでかければいいのか判断に迷うことがあるツキノワグマの姿でも、あるいは山小屋に一人、逼塞して暮らしながら日夜出刃包丁を研ぎ、彷徨える旅人をひたすら待っている山姥の姿でもない。ニホンジカである。

 この町にたわむるニホンジカを写真に収めたのは、おそらく全町民のなかで僕がはじめてではないのかと思うのである。名誉町民ものではないかと思うのである。
 この辺では、ニホンジカは山姥に匹敵するほど馴染みのない動物で、その北限はひと昔前までは大船渡市だといわれていたのもいまはむかし。それ以北でも目撃されたり農作物の被害があったりとの話は聞いていた。

 じつは昨年、僕は子供の鹿に遭遇したことがある。そのときは、とうとうここにも来たか、といった印象を持ったものだった。
 それはニホンカモシカのようにスングリムックリした下品な体型ではなく、かといって野良犬と見紛うはずもない、まさしくニホンジカの姿だった。
 体にまんべんなく白っぽい斑点があって、奈良公園とかにたくさんいて油断をしていると袋ごと餌を持っていかれる、あのニホンジカだったのだ。
 ただ、僕はそのときの姿を写真に収めたわけでもなく、「ニホンジカを見た。ホントだぞ!」と他人にはいうものの、それは一人で魚釣りに行って「逃がした魚は大きかった。ホントだぞ!」の域を超えず、笑い者の典型のようなものでしかなかったのだった。

 あれから一年以上がたつ。
 僕の暮らしに変わりはなく、色気づいた話もいまだに皆無である。今日も今日とて仕事が終わってから折爪岳の中腹にある入浴施設に通う。
 その帰り。やっ、やや。
 前方に見えるは……。あ、あれは、あれはまさしくニホンジカではないか。しかも三頭か四頭いる。この辺でははじめて見る光景だ。不思議な感じがする。奈良公園か金華山に来たみたいだ。スマホ、スマホ。「パシャ」
 これはスクープに違いないのである。この町にもニホンジカがやってきた。
 半年(以上)ぶりのブログ更新。

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参加せざるを得ない

 みなさま、新年おめでとうございます。
 遅ればせながら新年のごあいさつを申し上げます。どうも最近サボリぐせがついてしまって、このブログもほとんど放置状態。今年はせめて週一程度の更新を目標に掲げたいものです。
 何かを読むことと同じく、こんな駄文を長々と書き連ねることはすごく頭の刺激になるし――本を読まないでいると間違いなく“バカ”になる、と、ある著名人が言っていた。僕もそれにはまったく同感です――、書くときはそれだけに集中しているから余計なことはいっさい考えない、というかほかのことは忘れている。つまりストレス解消にもなるのだな、言い古された言葉だけれど。
 とまれ、僕の脳がボケてしまわないように、より活性化されるように、今年は少しペースを上げたいものです。よろしくお願いします。

 さて、選挙カーに乗って候補者の名前を連呼する女性のことを俗にウグイス嬢と言うけれど、お世辞にも“嬢”と呼ぶにはふさわしくない人がその仕事をしていたらなんと呼べばいいのだろう。ウグイス婦人? ウグイス妻? ウグイス婆?
 この町はいま、選挙戦一色の様相を呈している。
 明日、十八日が投票日の町長選である。僕はあいにく、映画を観にいくというのっぴきならない用事があるものだから、早々に期日前投票に赴き、僕の暮らしが今日より少しでも楽になることを祈りながら、しかるべき人に対してすでに清き一票を投じてきたのである。
 僕の鑑識眼は研ぎ澄まされているから、おそらくその人が明日祝杯を上げることになるのはほぼ間違いないと見ているのだが、予想に反してそうでない人が町政のハンドルを握ることになったとしても……、まあ、僕の生活がよくなるようにがんばって欲しい。言ってみればだれが当選しようが僕の生活が劇的に変わることはないと思っているのである(政治的無関心などとお叱りを受けるかもしれないけれど)。
 僕の収入がいきなり三倍に増えるとか、付き合ってくれるという女性が突然訪ねてくるような“御利益”があればもっと真剣になるのだが、神様じゃあるまい。自分のことは自分で努力して道を切り拓くしかないのだよ。他力本願はいけないのだよ。話が少しそれた。

 ある候補者の選挙カーに乗って叫んでくる“ウグイス嬢”の声が、「みざる」「いわざる」「きかざる」『参加せざるを得ない』……のあのテレビコマーシャルの声にそっくりなことを発見した僕は、朝から晩までその声が耳から離れないのである。とある場所でそれに遭遇すると「○○をよろしくお願い申し上げます!」が、「参加せざるを得ない!」に聞こえてきてついほくそ笑んでしまうのである。
 あのウグイスはきっと張本人に違いない。トレンドに乗っているナレーターの力量を見込んで、自らの選挙戦のために候補者が雇い入れたのだ、きっと。
 そして僕と同様に、「あ、“参加せざるを得ない”の声だ」と感じている人は意外と多く、その選挙カーとすれ違うたびに、「参加せざるを得ない、参加せざるを得ない」呪文のように頭の中で繰り返しているのである。計算しつくされた戦略、恐るべし。
 もちろん明日の投票は、すべての有権者が〈参加せざるを得ない〉のだよ。

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今年もお世話になりました

 百円未満の端数が出たら小銭入れからジャラジャラを出そうかと思ったけれど、三冊分の合計代金はちょうど二千四百円だった。
 僕は手にしていた漱石三枚を、レジに立つ店主と思われる初老の男に差し出した。
 その男の「ありがとうございます」はいつもよりていねいだったような気がした。慇懃とまではいかないけれど、「ありがとうございます。本当にありがとうございます。これで私もなんとか正月が迎えられます。ありがとうございます旦那様」みたいに聞こえた。
 よく行く小さなショッピングセンターの中にある書店だが、経営が楽ではないのは想像に難くない。都市部の大型店でさえ、商いが立ち行かなくなって次々と閉店していくようなご時勢なのである。
〈釣りは取っとけ。まあ、いいってことよ。年末年始にはお孫さんもどっかから帰って来るんだろう? 少しだがお年玉の足しにでもしてくれ〉と言ってやったような対応だったが、言ったわけではもちろんない。そんなことをしたら僕自身の“経営”が立ち行かなくなる。
〈苦しいだろうががんばってくれ〉心で思い、〈おまえに言われなくてもがんばるよ〉返されたような気がしたので、買い求めた週刊誌と文芸誌二冊が入った分厚い紙袋を小脇に抱えて僕はそのショッピングセンターをあとにしたのだった。
 二十七日のことで、人の往来がいつもより多く、年末独特の雰囲気を醸し出していた。

 去年もそうだったけれど、一人者にとって九日連続の休日というのはさすがに長すぎる。
 僕を取り巻く環境が去年と大きく変わったのは、なけなしの給料が日給制から月給制に変わったことである。つまりその月の稼働日に変動があろうが労働の対価は変わらない。ゆえに働けないことに対する焦りみたいな感覚はないのだが、かといってありあまるほどのサラリーをたっぷりといただいているわけでもない。この休みを利用してどこかに遠出するなどは夢のまた夢、うずらがハワイ旅行に行くような夢なのである。
 一人だと大掃除にもなかなか身が入らない。適当に片付けて終わりにした。誰かと会話を交わすわけでもない。言葉を忘れてしまうかもしれない、と冗談じゃなく思うこともあるのだ。口を閉ざし、休みがあけたときには僕はホタテのような貝になってしまっているかもしれない。

 この年末年始は読書に勤しむことに決めた。
 そのための書籍を買い求めるために、僕は書店に赴いたのだ。二千四百円分もの買い物は僕にしては大きな買い物だが、この長い休みの期間中に脳みその組織が破壊されないようにするための必要経費。
『週間文春』『オール読物』『小説現代』。これをぺらぺらめくっていれば、九日間のアンニュイな時間は優につぶせる、はずである。
 ということで、長期休暇も今日がちょうど中日。おかげさまで退屈することなく、無事に新年も迎えられそうです。
 今年もお世話になりました。

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