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野菜は罪

 僕はベジタリアンになりつつあるのだった。
 もはや野菜シンパ、野菜マニアといっても過言ではない。とにかく最近の僕は野菜を食べることにとめどなく凝っているのだ。
 肉が買えないといえば嘘になる。少なくとも鶏か豚は食ってきたし、牛だって羊だってたまには食ってきた。
 だが最近、豚が僕を裏切ったのである。

 昨今の豚肉の高騰ぶりというのは凄まじい。病気に罹ってしまった豚が見つかって、需給バランスが崩れてしまったのだとか。
 スーパーでは目に見えて豚の値段が上がっている。いまはあきらかに牛よりも豚の方が高いように思うが僕の思い違いだろうか。
「豚ブロック」というのは安物肉の代名詞みたいなものだった。五百円分も買ってくれば角煮だろうがボイルだろうが“焼き”だろうがたらふく食えたものだった。
 だがつい先日スーパーに買い物に行って驚いた。値段こそ変わらないものの、その量が半分近くに減っていたのである。
 売る側としては量を減らして「値上がり感」を押さえる戦略だろう。だが『アナ雪』を観た僕の目は、そんな「ふしアナ」ではないのである。ってか^^ゞ
 ずっと味方をしてくれているとばかり思っていた豚くんも、とうとう僕を裏切ってしまった。五百グラムのブロックが二百五十グラムになり、二百グラムのバラ肉も半分ぐらいの量になった。
 もはや信頼できるのは鶏の胸肉だけである。
 鶏の胸肉はいい。少しボソボソするがいくらたべてもヘルシーで肥らないところがいい。ホントにいい。ひゅ〜ひゅ〜♪

 だがさすがに肉ばかり買っている余裕は僕にはなく、鶏の胸肉が体にいいとはいえ、それはやはり野菜にはかなわない。なにせみ〜んな百円なのだから。
 移り気な僕の心が安くてヘルシーな野菜に流れてしまうのは当然のなりゆきであり、世の常である。
 なんでも百円。田舎の野菜は罪以外の何者でもないのである。

 ダイコン百円、ニンジン百円、ナス百円。キュウリなどは何十本も入って百円で売っていたりする。高いのか安いのかの判断さえつかない僕は、黄色い買い物かごにポンポンと商品を放り入れる。衝動買いが少し過ぎるのではないかと思わなくもないが、十の商品を買ったとしてもたったの千円なのである。消費税の八十円は、日本国民として目を瞑ることにしよう。

「つるな」、「おかひじき」。僕にとっては聞きなれない野菜もかごに入れてみる。最近は新しい?野菜が次々と登場する。昨夜は「福耳」っていうシシトウみたいなピーマンみたいな野菜を食べた。
 食事のとき、はじめに野菜から食べると血糖値を急激に上げない効果があるという。「腹が出ている男に人はついてこない」みたいな本を近ごろ読み、それに少なからず影響されてしまった僕。
 というわけで、ちょっとだけベジタリアン。

 おかひじきの味噌汁。なんておいしい草なのか――。

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ネッシー

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 ここにねえ、ネッシーがいたんだよね。
 昨日のことなんだけど。

 そりゃあ、びっくらこいたさ。
 ほら!

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降臨

『毒があるからカタツムリはアジサイの葉は食わないんだってよお。だけどな、コンクリートは食うんだぜ』
『マジっすか先輩、はっはっは』
 みたいな紙兎の会話がずっと頭から離れなかった。
 僕はロペが好きだ。あれが終わらないうちは朝の洗顔さえする気になれないほどのファンなのである。
 ――そうか。“アジサイにカタツムリ”は人間が勝手に作り上げたイメージでしかなかったのだな。紙兎もたまには有為なことを言う。またひとつ賢くなったじゃないか。はっはっはっは。

 屋根の上をカラスが歩いているような音で目が覚めた。驟雨だった。
 昨夜は久しぶりに遅くまで飲んだ。町で飲んだのもいつ以来だろう。帰りのタクシーの中で僕は半分眠り、半分は眼を開いたまま眠っていた。夢の中に紙兎が出てきたような気もするけれど覚えていない。
 そういえば昨日も乾杯が済むやいなや雷鳴があってザーッときた。梅雨だからな、と心の中でごちたがそれにしてもいつのまにかこの国は毎日スコールみたいなものがくるような気候に変わってしまった。洗濯物だってうっかり外に干せやしない。かといって部屋干しばかりしていると衣服から放たれる臭いが「加齢臭だ」とのいわれなき誤解を招く“おそれ”がある。いや、“明白な危険”がある。
 体内に蓄積された大量の酒が、玉の汗となって体を覆っていた。スマートフォンの小さな突起をピッと押す。予約していた散髪にはまだ小一時間あった。
 それにしても部屋の中が暑い。これじゃまるで蒸し風呂だ。たまらず扇風機を回すと網にくっついた埃が幾本かの糸のようになって踊りだした。心地よい雨音の中で、思いがけず授けられた至福の時間を僕はしばらく楽しむことにした。紙兎のことが頭を過ぎった。

 今年はあれだけ雪が降ったのに四月のうちに桜が咲き、チューリップもだいぶ早く開いた。例年の梅雨入りはちょうど僕の誕生日かその数日前後の日というのが普通なのだけれど、それもずいぶんと駆け足でやってきて、憂鬱になる時期が早かった。折爪岳のホタルも羽化が始まったというし、そういえば今年はヘビに遭遇したのもずいぶん早かった。帰宅して郵便受けをのぞいているときに足元で小さなヘビがクネクネしていたときには口から紙兎が飛び出るか、目から紙兎が落ちるほど驚いた。
 なんか変だ、と思うのは僕だけか。今年は何もかもが前倒し。まるで「何もかも前倒し」っていう相撲の決まり手にかかってしまったみたいだ。紙兎は相撲を観たりとったりするのだろうか。

「今年はなんかすごく忙しいのよね」
 髪を切ってくれた同級生のオーナーが言った。
 そうだそうだ、と僕も同意した。そう思っていたのは僕だけじゃなかったのだ。この数ヶ月間、やたらと忙しく感じる。僕を取り巻く環境のせいだとばかり思っていたが、どうやらそれだけでもないらしい。忙しいことはいいことだが、自然界の一員たる人間も、正体の知れない何者かに導かれ、マリオネットのように無意識のうちに動かされ、なにかに急かされているような気がするのである。田舎で暮らす者の感性は研ぎ澄まされているのだ。
 見たこともない大量のひょうが東京に降ったことにも触れ、「なにもなければいいけどね」と彼女は言い、「なにかあるかもよ」と返して店をあとにした。そして紙兎のことを考えた。

 湧水を汲みに行く。シダ類が栄え、ここはいつ来ても太古の昔からなにひとつ変わっていないような雰囲気を醸し出している。空気が水分を含み、いつもひんやりしていて真夏には天然のクーラーにもなる。
 四本の大きなペットボトルを満たすとすぐに表面が水滴に覆われて白くなった。あいかわらずここの水は冷たい。
 まさかここが枯れるようなことはないよなあ、などと思ったそのときだった。こんこんと水が湧き出る穴の奥から、微かな声が聞こえたような気がした。
(そんなことないっすよ、先輩。はっはっはっは)
 それは紙兎だった。まぎれもなく紙兎ロペの、どこか悲哀感が漂う、あのシュールな声だった。
 
 と、ここで紙兎を知らない人にとっては「紙兎ってなに?」という根本的な問題につきあたるのだが、まあ細かいことはよしとしよう。はっはっはっは、はっはっはっは、は・・・・・・。 

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「GOOD JOB!」

「WOOD JOB! 神去なあなあ日常」という映画があってそのことを書こうと思ったら、昨日たまたま目にした地元紙のコラム欄に「その映画を観てきてどーのこーの」との記事。
 四月、僕は一ヶ月にもわたる“くまのプーさん生活”をしていたものだから家計は火の車で、その建て直しが最重要かつ喫緊の課題になっており(なんだか総理大臣のセリフみたいだ)、そのうえ上映している映画館は気が遠くなるぐらい遥か彼方にあるものだから、「なんだかなー」みたいな気分になっていまだ観られずにいたのだった。
 原作はずいぶんまえに仮面ライダーアマゾンを通じて古本を入手した。「ずいぶんおもしろい小説だなあ」と一気に読みすすんだことをおぼえている。
 五月は猛暑のうちに終わり、まもなく二ヶ月ぶりの給料日がやってくる。給料が出たら映画にいこう。

 山菜採りやキノコ採りが“獲物”を見つけたとき、それは神々しくかがやく光を放ち、これみよがしにその存在感を誇示しているかのように見えるものである(ちなみにトグロを巻いたマムシに遭遇したときもそうである)。
 タラの芽、シドケ、ボーナ、ワラビにタケノコ……。興味がない人にとってはただの草に過ぎなくても、海千山千の猛者どもにしてみれば、それはまるで雑草の中に生えている黄金の草に見えるのである。そんなとき、僕はかぐや姫が入った竹を発見したときの翁の僥倖に心を重ねあわすのであった。
 でもかぐや姫はなんで竹の中になんか入っていたのだろう。なぜ竹である必要があったのだろう。考えてみれば桃太郎だってそうだ。なぜ桃である必要があったのだろう。カボチャだってマンゴーだってよかったはずだ。一寸法師は二寸であったとしてもなんら不自然なところはない(一尺だと少し大きすぎてかわいくないような気はするけれど)。それなのになぜ“一寸”なのだ。一寸法師だと“ちょっとぼうし”と誤読されてしまう危険性も孕んでいる。それは風鈴を“かぜりん”と読んでしまったときぐらいの辱めを与え、その後、彼はしばらく“かぜりんくん”とアイスキャンディみたいなあだ名で呼ばれるハメになるぐらいの危険度なのだ。読みかたを文脈から判断しなくてはならないというのもメンドクサイではないか。二寸法師だったならばそれは避けられたはずだ。
 謎だ。そうでなければならない理由や事情が昔ばなしにはあるのだろう。だがそれは市原家政婦にでも聞かなければわからない。うーん、謎だ。考えれば考えるほど謎に満ちている。ロマンだ――なんじゃそりゃ。

 僕みたいに鋭い眼光を常に森に向けていると、車の中からでも“食べられる草”が気になって気になって仕方がないのである。最近になってニセアカシアの花も天ぷらにすればおいしいということを知り、いままさに咲き乱れる真綿のごとき花房を車窓から眺めては「これを全部食べるとしたら天ぷら粉はどれぐらい必要だろうか」などと思ってしまうのである。まだ食べたことはないのであるが、おそらくジャスミンのような味がすると思う。ニセアカシアの花の香りは僕がいつも愛飲している税抜き六十八円ぐらいのジャスミン茶の香りによく似ているもの……。
 植物というのは大概が食べられる。毒がなければ食べていいわけであって、おいしいかまずいかは別問題だ。牧草だって大丈夫だと思うよ、胃腸が丈夫な人ならね。

 とある場所でちょっとした労働に従事したのは一昨日のことだった。
 目のまえに、まさに黄金にかがやく草が。山菜も三歳になるころでそろそろシーズンも終わりだが、作業場所は標高が少し高いところにあって植物の生長もすこしばかりスローペース。その草はまるで3Dメガネをかけたときのように、浮きでているようにさえも見えたのだった。
 目の中にスコープが出現し、角膜に“+”マークが出現して照準を“獲物”にロックオン。
 両手を使い、地中から一気に引き抜く。
「ウド JOB!」

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ウルわしきもの

 別に望んだわけでもなければ、だれかにたのんだわけでもないのだが、いまの時期、“えのぎゃぐり”(家の外周)には食材が「生えて」いる。“じゃっくり”と育つ、青々としたウルイである。
 もともとは山菜のようである。流通もあまりしていないのではないだろうか。田舎ならともかく、全国的な統計をとってみれば、「まったく食べたことがない」、「食べたことがない」、「どちらかといえば食べたことがない」の割合が六割から七割を占めるだろう。「無回答」、とする意地悪な人ももしかしたらいるかもいしれない。ただなんとなくだけれど……。
 多年性なものだから一度植えれば毎年同じ場所に生えてくる。だから無精者にも向いている。肥料もいらなければ、手入れもいらない。ヘビにおびえながら山に入らなくても食べられるから(不思議と天然物にはお目にかかったことはないのだが)、じつに好都合な「草」なのである。
 先人の知恵というものだろうが、この家の住人も何十年か前にそれを植えてくれたおかげで、僕は労せずしておいしいウルイを食べられるというわけである。「濡れ手にウルイ」。
 さっと茹でて“メイヨネーズ”で食べるのがもっともおいしい。
 メイヨネーズとはなんぞや。そうか、知らないのか。メイヨネーズというのはだなあ、『An Officer and a Gentleman』という映画の中に出てくる鬼軍曹が、若かりしころのリチャード・ギヤ演ずるザック・“メイヨ”を罵倒するときに使う言葉だ。まあ、簡単にいえばマヨネーズのことだな。ハハ。
 この映画が日本にくるとなぜ『愛と青春の旅立ち』というタイトルになるのかは、僕にとって永遠の謎だ。そんなことはいいとして観たことがない人は一度観ておいたほうがいい。僕のこの短い人生の中でもっとも感動した映画なのでR。

 閑話休題。
 幼いころ、僕はこのウルイが大嫌いだった。というか野菜や山菜はまったく食べられなかった時期がある。ニンジンやピーマンはおろか、ほうれん草や白菜、大根さえ食べられなかったことをおぼえている。むかしの野菜はえぐみやにおいがきつかった。「なぜこんなものを食べなければならないのか、世の中から野菜がなくなればいい」といつも思っていた(と思う)。ロールキャベツを初めて口にしたとき、あまりの不味さに「ベッ」と吐き出して殴られそうになったこともある。いまでは食べたくてもなかなか食べられないのだから皮肉なものだ。
 ましてウルイは便所の陰のジメジメしたところに生えているようなイメージがあった。僕がそんなものを食べられるわけがない。秋口になると細長く伸びた茎を摘んで輪をつくり、ジョロウグモに巣を張らせて弄ぶか、「ムチ打ちの刑だ」などといって友人を蹂躙して遊んだものだが(ウソ)、僕にとってウルイはせいぜいその程度のものでしかなかった。

 今日(昨日)はウオーキング大会なるものに生まれてはじめて出場し、十キロの道のりを約二時間かけて歩いた。もともと自分は体育会系の人間を自負しているし、若いときは「いつかはフルマラソンに」などと、はなはだしく、図々しい大儀のもとにジョギングを続けたこともあるぐらいだから、ほとんど苦にせず完走(完歩)した。なにか劇的なロマンスでも生まれるかと期待したが、そんなものはつゆほどもなく、つゆだけ垂らして帰ってくる結果となった。強烈な紫外線に攻撃された顔が少しヒリヒリする。またお肌をぞんざいに扱ってしまった……(?)。
 お風呂から帰り、“プシュッ”とやる。あっさりしたものがつまみに欲しいけれど野菜が……、いくらでもあるではないか。
 ウルイをかみしめ、ウルイに思いをめぐらすのであった。

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